・色情症(しきじょうしょう)
性欲の異常亢進(量的異常)の症状である。(同義語:色情狂)
男子色情症(だんししきじょうしょう、英satyriasis)
サチリアジスまたはサチリアージス。男性の性欲亢進過剰のことである。カサノヴァ型とドンファン型に分けられる。
女子色情症(じょししきじょうしょう、英nymphomania)(同義語:淫乱症)
ニンフォマニア。女性の性欲亢進過剰のことである。女性が不特定多数の男性と性交をくり返すことをいう。躁状態でも起こる場合がある。
・変態性欲(へんたいせいよく、英語:Perversion)
人間の性的行動や性欲のありようにおいて、正常と見なされない種類の嗜好を指す。
大正時代から昭和初期にかけては、精神医学における用語でもあったが、今日では、性的倒錯(paraphilia)という言葉が術語として使われる。なお、日本においては大正時代には早くも俗語化しており、当時、「変態性欲」ブームが起きて文学者から民俗学者までさまざまな人が変態性欲について論じている。
一般的に、通常生活において性的魅惑を生じない、あるいはそう個々人で考えられている行為や状況に対し、性的興奮を覚える心理を指す。ときとして異常なまでに性に執着する様態を意味する場合がある。
異常性欲、変態とも言うが、微妙に意味が異なっており、変態性欲の意味内容自体に曖昧さがある。
変態性欲を(主に対外的に)行動に移すとき、場合によって、変質者と呼ばれることがある(田代まさし、植草一秀)。
ローマ字表記の「HENTAI」の頭を取って、エッチという言葉が生まれたという説もある。
ただし、H(エッチ)は大正までホモの詐称的隠語として用いられている為、小説等では時代を上るほど 同性愛という意味合いが強くなる。
かつては異性間における性行為である性交を標準に捉えて、それから行為そのもの、もしくは対象を逸脱したと思われる行為を全て変態性欲と定義していた。
現在、国際医学会やWHO(世界保健機関)では、同性愛は「異常」「倒錯」「変態」とはみなしておらず、治療の対象から外されている。
同性愛などの性的指向については発達障害などとは別のもので、矯正しようとするのは間違いとの見方が主流となっている。
一人一人の中で、「同性指向」と「異性指向」がある一定の割合で存在しているというのが人間という「種」の基本的性質であり、そのパーセンテージは自分の意志で簡単に変えたり選んだりできない可変性の低いものになっている。
また、日本精神神経医学会は、「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」という見解を宣言している。
こうした理解に見られるように、現在では、同性愛を「変態」と呼ぶことは医学的に正確ではないが、社会的にはなお変態と考えることが通常である。
・性的指向(せいてきしこう)あるいは性指向(せいしこう)
(英: Sexual Orientation)は、いずれの性別を恋愛や性愛の対象とするかをいう、人間の根本的な性傾向のこと。無意識に形成されるとされる。
おおまかに「異性愛」、「同性愛」、「両性愛」に分類される。
性的指向を持たない場合は「無性愛」となり、これを便宜的に性的指向の中に分類する場合もある。恒常的に他人への性的欲求を持たない状態を「非性愛」という。
・両性愛(りょうせいあい、バイセクシュアル、英語 bisexuality)
男性にも女性にも見られる、いずれの性の人に対しても、美的な憧れや情緒的・精神的な魅惑、あるいは性的・肉体的な欲望を抱くような性的指向をいう。
両性愛は歴史上、人間社会および動物社会においてもさまざまな形態で観察されてきたものであるが、20世紀後半に入って初めてまじめな研究の対象となった。
両性愛という語は、同性愛および異性愛を両極端とする、その他のすべての性的指向を指している。
両性愛の人々は必ずしも双方のジェンダーに同じように魅力を感じるわけではない。
むしろ、いずれかのジェンダーをより好む傾向が見られることが多い。
近代に入ってまとめられたいくつか調査によれば、西洋に住む人々のうち約2%から6%が両性愛者である。
しかしながらこの調査には回答者の無作為抽出や回答者の規模などに関して方法的な難点が存在するし、回答を自己分析に頼ることによって正確性も疑問視されている。従って、この調査が報告する両性愛者の人口は論争の対象である。
おそらく人間の性についての統計を初めて記述した精神科医ジークムント・フロイトは、あらゆる人間は誰でも、人生のうちのある時期において両性愛者になりうる可能性を持っていると考えた。
歴史的に見て、両性愛は同性愛から俗に連想されるような社会的汚名とは一般に縁がなかったどころか、両性愛が普通のことだと見なされている社会においてはむしろ広く流行していることであった。
古代ギリシャでは、男性が最終的には結婚して子どもを作る限りにおいて、少年愛ということ自体は全く問題視されなかった。
世界中の、いわゆる良い社会的地位にある上流階級の男性たち、つまりきちんと結婚している男性たちの間では、同性愛の問題は比較的平穏に受け入れられている。
歴史的および文学的な記録は、古代より男性の両性愛が日常的なことであったのだと示している。
このような性的関係は一般に年齢的構造をとったり(成熟した男子が幼い男児を愛する。古代ローマ帝国時代までの少年愛や、中世から近代の日本における衆道のようなもの)、もしくはジェンダー的構造を取ったり(同じ身体に2つの異なるジェンダーが存在すると考えた北アメリカに伝統的な見方や、中央アジア地方のイスラム社会における少年を女と同視する文化での少年愛のようなもの)していた。
古代ギリシャでは、一般に男性は、思春期のうちに同性愛的指向を示す段階を経験し、続いて青年期において少年愛に特徴を見いだせる両性愛的指向を示す段階を経験し、そこから人生の遅い時期に結婚し子どもを作る時になって初めて異性愛的指向を示す段階に至るのだと考えられていた。
古代ローマ帝国や、中国、日本、また現在もその慣習の残るアラブ諸国においても男性は類似の両性愛的振る舞いを見せていた。
特に日本においては、衆道にみられる実践とそれに関連する美術作品や文学作品が莫大な数遺されてきていたために、本来なされてきた両性愛的ライフスタイルはとても詳細に記述されているし、なんと19世紀に至るまで実際にその習慣が続いてきているのである。
おそらく歴史的に最も有名な例はたくさんの妻を持っていたアレクサンドロス大王であろう。多くの歴史作家は彼には少なくとも2人の男性の恋人がいたのだと断言している。
そのうちのひとりヘファイスティオンは彼の古い友人である。
このように両性愛的振る舞いはローマ皇帝や中国皇帝、日本の将軍・戦国大名たちの間ではしばしば見られることであった。
古代ギリシャの都市国家スパルタの伝統法は、年頃の若者との同性愛関係は、男性が最終的には結婚して子供を作る限りにおいて、成人男性の判断に任せていた。
スパルタ市民は、経験豊富な兵と未熟な兵との間の恋愛関係および肉体関係は、国家に対する忠誠心を強固なものとし、またパートナーを感動させようと兵士たちが互いに競いあうことで、英雄的戦術に積極的に取り組むようし向けるものであると考えたのである。
ひとたび年下の兵が成熟した年齢に達したならば、同性愛関係は肉体的なものでなくなるのが望ましいとされたが、この暗黙的ルールがどれくらい厳格に守られたのかということは明らかではない。
成人した兵と性的関係を続けたことで汚名を着せられた若い男性に関する話も残っている。
しかしながら古代ギリシャ世界のほとんどの地域においては、例えばアテネを例としてあげると、年老いた男性と、かなり若い少年とが少年の成人まで性的関係を続けると言うことは社会的に厳しく蔑まれていたのである。
イスラム諸国においては、対象のジェンダーが何であっても、イスラームの教えに背かない限り愛は絶対的な善であるとみなす文化が発達した。
男性が美しい少年に魅力を感じるということはイスラム世界において万国共通であり、ごく普通のこととしてかなり寛容に理解されていた。
このような逸話がある。
イブン・アル=ジャウージという学者が13世紀に生きたのだが、彼は「あの、美しい少年を見ても何にも感じないとか言う男はうそつきだ。奴を信じることができるとしたら奴は人間じゃない。動物でしかあり得ない」と述べたことで有名なのである。
宗教的書物の一部は、少年に対する感情は女性に対するものよりしばしば強いものであったので、この感情にのめり込まないよう若い男性に警鐘をならすほどであった。
スーフィズムは、議論の分かれる所であるのだが、男の子の美しさをじっと見つめることは神と交流する方法なのだと教えている。
一方こうした文化的土壌にも関わらず、コーラン(クルアーン)に男性とのアナルセックスを厳しく禁じる規定(リワート)があることが彼らの同性愛の様態を性交以外の行為に思いとどまらせてきた。
男性はしばしばこのリワートが原因でパートナーもろとも有罪宣告を受け、折を見て処刑された。
しかしながらクルアーンは、犯罪者を有罪とするために、犯罪現場が4人の男性または8人の女性により押さえられていることを必要としているのである。(つまり同性愛そのものではなく公衆の面前で事の及ぶということが禁じられていると解釈するのが妥当である。)
宗教的に一種の現実黙認があったと考えるべきであろう。
(あるいはモハメッド自身がバイセクシュアルであった可能性は少なくない)
衆道(しゅどう)
「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。
平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。
日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。
仏教の戒律には「女犯」という僧侶が女と性交する事(女色)を忌避するものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者たちである)。
平安時代にはその流行が公家にも及び、その片鱗はたとえば複数の男性と関係した事を明言している藤原頼長の日記『台記』にうかがえる。
北畠親房が『神皇正統記』の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている(室町時代においては、足利義満と世阿弥の男色関係が芸能の発展において多大な影響があったとされている)。
戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。
織田信長と前田利家・森成利(蘭丸)ら、武田信玄と高坂昌信、伊達政宗と片倉重長・只野作十郎、上杉景勝と清野長範などが有名な例としてあげられる。
武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある。
江戸時代においては陰間(男性売春夫)遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。
衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ『東海道中膝栗毛』発端には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。
しかし江戸時代後半期に入ると衰退し、幕末には一部の地域を除いてはほとんど廃れ、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視されるようになった。
(ウィキペディア)
まあ、いろいろある。世の中はややこしい。でも何事も程度問題で、あまり放埓なのはやはり心の病気だ。