・ホルス
(Horus、エジプト語ラテン文字転写:Hr, Hru 、古代ギリシア語: ?ρο? (H?ros))は、エジプト神話に登場する天空と太陽の神。
オシリスとイシスの子で、セトの敵対者である神としての神話が特に有名だが、神話によってはオシリス、イシス、セト、ネフティスに続く5人目の兄弟となる事もある。
妻としてはハトホルが有名だが、その他の女神を妻とする事もある。
ホルスは、エジプトの神々の中で最も古く、最も偉大で、最も多様化した神である。
通常は隼の頭をした男性として表現される。
ホルスは、ホルミオスの名ではライオンの外観をとり、ハルマキスの名では「スフィンクス」になる。
時代とともに、その姿は隼から人間の姿をとるようになる。
ホルス信仰が発展するにつれて、ホルスは幼児神とも考えられるようになった。
母神イシスの膝に乗った幼児(ホルサイセ・ハルポクラテス)として表現されるものもあり、これはキリスト教における「聖母子」像の原型とも考えられている。
ローマ時代には、ホルスは兵士に姿を変え、これは聖ゲオルギウスの原型となる。
ホルスの元素は、大気と火。その色は、一般には黒、赤、白である。
ホルスは父神オシリスの後を継いで、現世の統治者となる。
したがって、ファラオはホルスの化身とされ、複数付けられる王名の一つとしてホルス名がある。
また、ホルスは、ラーと習合したラー・ホルアクティ(Ra-Harakhte 「地上のホルスたるラー」)を初め、様々な神との習合が見られる。
エジプトを象徴する模様として有名な「ウジャトの目」とは、「ホルスの目」のことである。
ちなみにホルスの母もしくは妻とされる女神ハトホルの名は「ホルスの家」という意味がある。
・ホルスの目(ホルスのめ)は古代エジプトのシンボル。
初期にウァジェト、月の目、また後にはラーの目とも呼ばれた。
古代エジプトのホルス神はハヤブサの頭部を持つ太陽と天空の神で、その右目は太陽を、その左目は月を象徴していた。
ホルスの目は、6つの異なるヒエログリフによって表現されている。
文字はそれぞれ1/2、1/4、1/8、1/16、1/32、1/64を表す。
処方箋のシンボルであるRxマークとの関連性も指摘される。
(注:ホルスの目をヒエログリフではなくハンドサインで表示すると、これはロングホーン、すなわち日本の影絵で狐を出すのに使うのと同じ指の動かし方をする。
具体的には親指に中指と薬指をあわせる。)
・オシリス(Osiris)は、古代エジプト神話に登場する神の一柱。
オシリスとはギリシャ語読みで、エジプト語ではAsar(アサル)、Aser(アセル)Ausar(アウサル)、Ausir(アウシル)、Wesir(ウェシル)、Usir(ウシル)、Usire、Ausareとも呼ぶ。
イシス、ネフテュス、セトの4兄弟の長兄とされる。王冠をかぶり、体をミイラとして包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれる。
同神話によれば、生産の神としてまた、エジプトの王として同国に君臨し、人々の絶大な支持を得たが、これを妬んだ弟の「セト」に謀殺された。
尚、この際、遺体はばらばらにされて、ナイル川に投げ込まれたが、妻であり妹でもある、イシスによって拾い集められ、ミイラとして復活。
以後は、冥界アアルの王としてここに君臨し、死者を裁くこととなった。
その一方で、自身の遺児・ホルスを「イシスを通じ後見」して、セトに奪われた王位を奪還。
これをホルスに継承させることに成功。
以降、現世はホルスが、冥界はオシリスがそれぞれ統治・君臨することとなった。
ただし、この神話はエジプト人自身の記述ではなく、ギリシアの哲学者プルタルコスによる「イシスとオシリスについて」に基づくものである。
・オシリスとイシスの伝説
オシリスとイシス及びセト、ホルス神を巡るエジプト神話上の一連のエピソード。
ギリシャの歴史家プルタルコスによって紹介され、ファラオの王権にも密接に関わっている。
神話学の観点からは、オシリスの死と再生を象徴しているとされる。
神話時代の昔。オシリスとセトは兄弟であったがある日、オシリスが館を留守にしている間にセトは72名の廷臣達と暗殺の謀り事を企む。
オシリスが帰ってきたとき、木棺にピッタリ入った者には褒美が贈られるという催しがあった。
木棺はオシリスの体に合わせてセトらが作らせた物であったが、何も知らないオシリスはピッタリした棺に気持ちよく横たわった。
するとオシリスが抵抗する暇もない間に蓋がかぶせられ、隙間には鉛が流し込まれた。
そして棺はナイル川に流されることとなる。
オシリスの妻であり妹でもあるイシスは心を痛め、自らの長けた魔術を駆使しビブロスの宮殿で柱となっていた棺を探し当てて、秘密の場所に隠した。
だが、それを知ったセトは執念で棺を探し回り、木棺の中の遺体を14の部分に切断してしまう。
イシスは再び救出に赴き、パピルスの舟で遺体の破片を探し出し、繋ぎ合わせた体を強い魔力で復活させた。
そうしてオシリスは冥界の王として蘇る。
さて一方では、オシリスとイシスの間に生まれた息子ホルスが叔父に当たるセトへの復讐を決意していた。
ホルスとセトは激しい戦いを繰り広げ、「左目を失ってしまう」ものの最終的にホルスが勝利し、父の仇討ちを果たすことに成功する。
それでオシリスは地上の王権をホルスに譲位することができた。
これ以来、地上を統治する王(ファラオ)はホルスの化身と見なされるようになった。
なお、ホルスとセトの戦いの際、ホルスが失った左目は古代エジプトでよく見られる眼のシンボルとなり「ウジャト」と呼ばれる。
セトを撃退したことから魔除け的な意味を持ったようだ。
・イシス(Isis)はエジプト神話の女神。
イシスはギリシア語であり、古代エジプトではアセト(注:おそらくセトに先立つ者の意味)と言った。
ヘリオポリス神話ではゲブとヌトの子供で、オシリスの妹であり妻、セト、ネフティスの姉でもあり九柱神の一角をになう(セトの妹とされる事もある)。
またホルスの母。
別の神話によると「ラーの娘」。
ナイル河畔のサイスに大規模な神殿があったことで知られる。
イシス信仰は、共和政末期にローマへ持ち込まれて発展し、200年頃にはほぼローマ帝国全域で崇拝された。
イシスは「永遠の処女」であり、「処女のまま神=ホルスを身ごもった」とされ、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などさまざまな二つ名を持った。
しかし、信者が基本的に女性に限られたことや、信者の女性が一定期間の純潔を守ることを教義としたため、男性からの評判が悪く衰退していった。
イシスがホルスに授乳する様子などが、イエスの母・マリアへの信仰の元になったといわれる。
サイスのイシス神殿の銘文「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」は真理の性格をあらわすものとして、ヨーロッパで好んで引用された。
オシリス神話により献身的な母や妻としての印象が強いが、他の神話的物語では強力な魔術師的存在として描かれ、その力を用いて父ラーから支配権を強引に奪い取ったという神話も残っている。
・バアル
(ウガリット語形 b‘l [ba‘alu])とは、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。
その名はセム語で「主」を意味する。
「バール」「ベール」の表記も。
もともとはハッドゥ(hd [haddu])またはハダド(hdd [hadad])という名で、アッカドの雷神アダドの前身でもある。
この名は恐らく雷鳴の擬音と考えられる。
しかしハッドゥが主神、すなわちバアルと呼ばれ崇められているうちに、その呼称が固有名詞化し、後にはもっぱらバアルと呼ばれるようになった。
本来、カナン人の高位の神だったが、その信仰は周辺に広まり、旧約聖書の列王記下などにもその名がある。
また、エジプト神話にも取り入れられ同じ嵐の神の「セト」と同一視された。
フェニキアやその植民地カルタゴの最高神バアル・ハンモンをモロクと結びつける説もある。
さらにギリシアでもバアル(Β?αλ)の名で崇められた。足を前後に開き右手を挙げている独特のポーズで表されることが多い。
旧約聖書の列王記下では、預言者エリヤがバアルの預言者と争い、神の偉力をもってバアル信者を打ち滅ぼしたことが書かれている。
バアルは旧約聖書の著者達から嫌われており、もともと「バアル・ゼブル」(崇高なるバアル)と呼ばれていたのを「バアル・ゼブブ」(蝿のバアル)と呼んで嘲笑した。
この呼称が定着し後世にはベールゼブブと呼ばれる悪魔の一人に位置づけられている。
士師記にも記述が見られ、バアルの祭壇を破壊した士師ギデオンはエルバアル(バアルは自ら争う)と呼ばれた。
新約聖書ではイエス・キリストが悪霊のかしらベルゼブルの力を借りて悪霊を追い払っているとの嫌疑をかけられている。
・ベルゼブブ
(Beelzebub)は旧約聖書『列王紀』などに登場する異教神。
ベルゼバブ、ベールゼブブとも表記される。
新約聖書にもその名がみえる。この名はヘブライ語で「ハエ(一説には「糞山」)の王」を意味する。
本来はバアル・ゼブル(????? ??????)、即ち「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。
これは恐らく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる。
パルミュラの神殿遺跡でも高名なこの神は、冬に恵みの雨を降らせる豊穣の神だった。
一説によると、バアルの崇拝者は当時オリエント世界で広く行われていた、豊穣を祈る性的な儀式を行ったとも言われる。
しかしヘブライ人たちは、こうした異民族の儀式を嫌ってバアル・ゼブルを邪教神とし、やがてこの異教の最高神を語呂の似たバアル・ゼブブすなわち「ハエの王」と呼んで蔑んだという。
これが聖書に記されたために、この名で広く知られる様になった。
新約聖書の『マタイによる福音書』第12章や『マルコによる福音書』第3章、『ルカによる福音書』第11章では、律法者がイエス・キリストに対し、「悪霊のかしら・ベルゼブル(希: Βεελζεβο?λ)の力を借りて悪霊に取りつかれた人を救っているに違いない」と非難した事が記されている。
これに対してイエスは、「悪霊が、 仲間である同じ悪霊と争うはずはない、自分は聖霊によって悪霊を追い出しているのだ」と反論している。
旧約聖書では辛うじて神と呼ばれていたベルゼブブは、この時代には完全に悪魔とされていたのである。
近世ヨーロッパで流布されたグリモワール(魔術書)における設定ではフランス語形ベルゼビュート(Belzebuth)の名でも現れる。
彼は大悪魔で魔神の君主、或いは魔界の王子とされるようになった。
地獄においてサタンに次いで罪深く、強大なもの。権力と邪悪さでサタンに次ぐと言われ、実力ではサタンを凌ぐとも言われる魔王である。
ベルゼブブは神託をもたらす悪魔と言われ、また、作物を荒らすハエの害から人間を救う力も持っている。この悪魔を怒らせると炎を吐き、狼のように吼えるとされる。
かつて、天界では最高位の熾天使で、天界の戦争においては、ルシファーの右腕として戦ったという説話が創られた。
また、蝿騎士団という騎士団をつくっており、そこにはアスタロトなど悪魔の名士が参加しているとされる。
(以上 ウィキペディア)
・バアル Baal/Barl
もとは、西セム系の神。アナト、アスタルテなどとともに、シリアから渡ってきた神。
バアル、という名は「主人」を表し、地方によってバアル・何々、と後に地名などが続く。
シリア人が大量にエジプトに移住した時代に、ともに信仰も移り、エジプト風になったものが、エジプトにおけるバアル神だ。
砂漠、嵐の神であったことから、エジプト神話における似た属性の神、セトと同一化され、妻までセトにとられてしまう。
もともと属する神話はウガリット神話で、そこでの彼は「主神」である。
現代ヘブライ語では、夫のことも「バアル」と呼ぶらしい。
バアルはもともと「主人」という意味があるので「うちの主人は~」というのが「うちのバアルは~」に変化してもおかしくなさそうだが、三千年の時を経て、バアルもずいぶん格下げというか身近になったというか。
バアルは、もともとエジプトの神ではない。
紀元前1663-1555年ごろ(※この年代には前後50年くらいの誤差がある)の、「第二中間期」と呼ばれる時代、またはそれより少し以前に、エジプトの東方から渡ってきた人々が信仰していた神である。
バアルをつれてきた人々は、侵略目的、あるいは単に新天地を目指して移住して来た人々だったとされる。
異国の神は、自らを連れてきた人々の定住とともに「定住」の道を選び、エジプトの信仰に取り入れられていった。
出身地は、カナアン(カナーン)。
エジプト神話側からすると意外かもしれないが、本来のバアルは豊穣神だったらしい。
エジプトでのバアルは、もちろん「戦いの神」。
荒ぶる神、セト神と同一視され、眷属か、または同一人物とさえ見なされていた。
その原因のひとつは、どうやらエジプトの砂漠気候にあるようだ。
カナアンでの豊穣神は「雨を降らせる」ことになっている。雨は雷とともに来る。ゆえにカナアンでのバアルは雨・雷・雲、または嵐で象徴された。
だが悲しいかな、エジプトは、雨が降らない国だった…。
水をナイル河に頼っているエジプトでは、豊穣の神は、オシリスやハピといった「河の神」である。
雨の神はいないし、雨が豊穣の象徴となることもない。
そんなわけで、バアルは雨を降らす神ではなくなり、雷や嵐の力強さに付随した戦いの神という属性だけが残ってしまったのだ。
ところで、本国のバアルには、雨の神らしく「きんと雲」ならぬ、お出かけ用の雲があったらしい。
自分用の屋敷をたてるとき、建築技師(の役割の神)コシャル・ハシスと、こんな会話を交わしている。
「いや、宮殿に窓をつけてはならぬ。窓は必要ない。」
するとコシャル・ハシスがまた言うには、
「おお、バアルさま、あなたが雲にのって出かけるためには(なぜならばバアルは雷神ですから)、窓が必要ではありませんか。」
するとバアル神が、またも断固として言うには、
「いや。宮殿に窓をつけてはならぬ。窓は必要ない。」
-「ヘブライの神話 創造と奇蹟の物語」 矢島文夫-筑摩書房
コシャル・ハシスというのは、建築の神である。
(引用者注:宮殿はピラミッド、窓はホルスの目、建築技師はフリーメーソンと当てはめてもらえれば、メーソンの信仰の原型が理解してもらいやすいだろう。
バアル=セトが、窓=ホルスの目を嫌う。
しかし窓はバアル自身が外に出る=顕現するのに必要なものなのである。
隠れた神は表に出たがらない。それを建築技師は出そうとする。)
バアル崇拝は偶像をともなうものであったため、ユダヤ教とはかなり折り合いが悪かったらしい。
預言者エリアやエレミアが、バアル信仰を追放したとの話もある。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/god/baal.htm
ここで理解して欲しいのは、ホルスはイエス・キリスト。イシスは聖母マリア。
その原型であるとみなされている点である。
(そのような信仰の文脈を持っている連中がこの世界の上にいると思っておいて欲しい。)
ホルスは秘儀=古代の叡智によって護られた者、つまり顕現した叡智を示す。
イシスは秘儀によって護る者、これは隠された叡智の管理者を示す。
さらに言えば、ホルス自身は(ピラミッドの守護者たる)スフィンクスになぞらえられ、そのホルスの失われし左目は、すなわちこれはイシスの持つ叡智を意味するが、しばしばピラミッドのトップストーン(これは心を写す鏡に例えられる)に刻まれる。
言い換えれば、ホルス=スフィンクスがイシス(もしくはイシスが守るべき古代の叡智、隠された神)=ピラミッドを守っているということである。
そしてセトはバアル(バール)に当てはめられ、後にイエスと対立しているという文脈で語られる悪魔のベルゼブブと同一視されているという関係性である。
(ここではバアル=セト、イエス=ホルトで、セトの役割は秘儀を探る者。開ける者、もしくは脅かす者。隠されたイシスの魔術=叡智=ホルスの左目を求める者。
なおもともと神であるバールが自らを表示するハンドサインが、実はロングホーンなのである。
すなわちややこしい話だが、隠された神バール=悪神セト=ホルスの目という暗喩もあるのだ。
逆に言えば、ホルス マイナス 左目 イコール イエス。
という関係式がそこには含まれる。
隠されし神と顕現せし神、それで両者は対立する。)
以上の文脈で、新世界秩序を推し進める者はしばしば自らを神ホルス、キリストの側にあるものと称している。
しかし彼らは失った左目を持たない。
すなわち古代の叡智たる秘儀の真の在処を知らない。
だからこそそれを希求し、様々な場所にそのシンボルを配する。
これは彼らが秘儀を奪うために狙う者であり、未だその探索者でしかないことを表す。
(実際に持っていないからこそ、それを表示する必要がある。
尋ね人広告と一緒である。
持っていて我が掌中に握っている者は誰にも告げない。
不要な真似をする必要がそもそも無い。
ただ自分が持っているものを然るべき時然るべき相手にのみ直接委ねる。
それを見出すのは、我が左目のみである。
受け継ぐべきは、自らの右の眼に我が左の眼を写す者、自身のうちに眠る、隠されしホルスの目の真の在処に気づける賢き者だけである。)
でもやはり連中は自分たちが自負するほど賢くはなくむしろ馬鹿なので灯台下暗しのまま膨大な時間を無駄にしている。
それが現時点での真実だ。
(別に連中に教えてやる義理もないので何も教えてやらない。そのまま死ね!)
つまり真実において彼らはホルスの側ではない、その資格がない、むしろ逆の側の存在なのであるということになる。
彼らは自分自身の姿を鏡の中で見ているので、全部逆さまに考え違いしている。
本当の悪魔は自身を神の側だと思っている彼ら自身なのである。
ヘルメスいわく「内のごとく外も、外のごとくまた内も」
マクベスの魔女いわく「綺麗は汚い 汚いは綺麗 綺麗は汚い 汚いは綺麗 さあ飛んで行こう 霧の中 汚れた空をかいくぐり」
僕いわく「左目を鏡で写せばどっちの目?」
・スフィンクスの謎
オイディプスの神話によれば、ヘラによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。
旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。
なお、答えずに引き返すことは可能だった。
この謎はムーサに教わったとされている。
しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという(アポロドロス、ヒュギヌスなど)。
またはオイディプスに退治されたともいわれる(ソポクレス『オイディプス王』、エウリピデス『フェニキアの女たち』)。
(ウィキペディア)
これは別の解釈もできる。
4本足はテーブル。2本足は立っている自分。3本足は椅子。
最初は誰のものでもないままテーブルの上=神の座に置かれている。
それを見出し取り上げそこから動かす者がいる。
その者は最後に自分の膝の上にそれを載せ椅子に腰掛ける。
全ては家の中の出来事。家とはピラミッドのことである。
時間の変遷の中で知恵の在処がいかに移り変わるかをしめしている。
しかして人は神の叡智を手にした瞬間に夜の帳に消える。
やがてまた朝が来て新しい人が、それを見つけ、同じことを繰り返す。
スフィンクスは、永遠の時間の中、それを横目にじっと見ながら何を想っているのだろう?
そう、きっと奴自身は人の営みの虚しさをこそ観ているに違いない。
つまりそれが真の知恵に違いあるまい。
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